五反田 添い寝女子
[ 五反田 ⁄ 手コキ ]
2019/07/25 up
タイトルなし
人は自分のことを完全に理解することはとても難しい。もし、出来ていると思うのであれば極めて優秀な新人類か、自らを知らないかのどちらかではないか。
思考の整理によく使われる、知覚を4つの世界に分類するジョハリの窓。開かれた世界。知覚できる世界。知覚される世界。そして見えざる世界。
後者2つ、自分から見えない世界の知覚はとても難しい。見えざる世界は尚更である。ジョハリの窓の言葉を借りれば「秘密の窓」である。
ではどのようにすれば「秘密の窓」を知覚出来るのであろうか。
最も良いのは、自らに問いをぶつけることであろう。問うことそれ自体のうちに問いの意味がある。問うことを辞め、わからないものを社会の一般論を自らの論理として捉えることは真実に近づいているようで、ただ盲目なだけとも言える。
常に当たり前を疑い、自分に自分を問い続けること。その連続によって徐々に見えてくるものではないのか。
さて、一人の人間として「秘密の窓」を少し開くことを求めた私は、非日常を味わい、違う視点で性行為を楽しんでみることを求め、本店舗を利用することにした。
この手のお店への造詣が深い訳ではない私は、知人から唆されたのがはじまりであった。
一言で言えば、全てが未知の感覚であった。
これまでが愛を確かめる行為ならば、ここでの出来事はどこまでも快感を求める行為であったからだ。
私ははじめて責められる快感を全身に感じ、全てを委ねた。まるで全身のシナプスが自分の意思通りに動かず、他者によって支配される感覚。まさに、自ら感知出来ない「秘密の窓」を知覚した瞬間であった。
加えて、こころを任せることのできる。
メルロ=ポンティは自己の身体に持つ意識は思考ではないと述べ、身体に対する意識を明晰することは出来ないとした。
身体とこころは繋がってる。そしてそれを完全に分けることは難しい。こころを任せる感覚が身体へ違和感なく繋がるからこそ、なのである。
この手の店舗は、塩らしく対応されるイメージを強く持っていたが、ホスピタリティという簡単な言葉で表現することの出来ないこころのもてなし。たとえ擬似的であったとしても、こころが繋がることの出来る時間。
「秘密の窓」をこじ開ける。誰も知らない自分の世界を知覚する。そして更なる知らない世界があることを知る。
その世界がどこへ広がっているのか、それはもちろんわからない。幼い頃聞くことの出来た超音波に近い高音が年々聞こえなくなっていく一方で、研ぎ澄まされる感覚を求めて。
かこみんぞ さん
体験日:2019年07月上旬